2011年12月26日月曜日

歳末、一心寺で墓の歌にいろいろ思う


週末、かつ歳末の一心寺。参拝者の賑わいを避けて霊園をぶらぶら。

台地の縁、視界の片側には通天閣。

一際大きな墓石。



幾度も往来する身とおもへ人
つとめながらに帰る順誓







順誓が心のうちに咲く花も
空海どのとかはることなし
萬法みな
南無阿弥陀仏

明治廿六年十月建之

心の花の事なので詮議できないが、俺は弘法大師と同じくらい偉いんだと威張られているような気がする。


その少し東、比較的慎ましい墓石。



殖種徳本信士 辞世

エンジンがとまりしからは せいもなし
尻に帆かけて 弥陀の浄土へ







海運業を営んでいた方なのであろうか。

内燃機関が動かなくなったので、尻に帆をかけて風に西方浄土へ運んでもらおうというのである。

本当はもっとばりばり働きたかったが、寿命が尽きたんだからしょうがない。一足先にあの世へ行かせてもうらうぜ。あばよ。

気っ風の良さが偲ばれる。

明治廿四年五月建碑




もう一基。












一観亭鳴鳳之碑


辞世
眠気さすように思ふて 南無阿弥陀
はやお迎ひにこさったかさて
永貞謹書

あくび交じりの称名念仏。なんともトボケたご臨終のスケッチである。

狂歌師であったとか。
























隣は俳人小西来山の墓。





















湛湛は号の一つ。境内に翁の句碑も一基ある。






















時雨るや しぐれぬ中の 一心寺



この人の句碑についてはまたいつか触れようと思っている。



2011年11月17日木曜日

高位。無冠?


 
今はない生家のほど近く、環濠をはさんで南宗寺まで300m程の位置、海はもう近くはないが船待神社というのは良い名だ。




大宰府に向かう途上の菅公が腰を掛けたとう石もある。




行政区画の変更を記念して立てられた碑。
題の書丹は公爵近衛文麿。





大正十五年十月建碑。
巣鴨プリズンへの召喚を前に青酸カリで自殺するのはこの二十年と二個月後。




東の鳥居を出て20メートル程、チンチン電車の踏切の手前。






正一位兼平大明神。

位の割りには随分低いところにおわします。

拝すともなく佇む小生に、通りがかったジャージ姿の青年が所謂ガンを飛ばしてきたが、気にせず東に向かう。

2011年11月1日火曜日

碑の捨てどころ



この日は折口信夫の墓に参ろうと南から木津に向かったのだが、願泉寺の門は閉ざされていた。

少し北の敷津松之宮大国主神社境内に歌碑がある。




















正直、そこで読みきれなかったのだが、家に帰って釈迢空詩集と付き合わせたところを記す。

春はやきこぶしのうれひさきみちて ただにひと木はすべなきものを






難波八坂神社で一休みした後、もうすぐ地下鉄入り口というところ、瑞龍寺に入る。

一切経開版で高名な鉄眼和尚中興の寺という。
















堂宇の南、殺風景なビルの壁に挟まれた霊園に入る。

目を引いた碑の一つを録す。



















洋中溺死墳



















荒波の和める音をかたみにて
くるしき海はあせにけるかな

●● 尾崎正明




















消(?)安政六乙未年十月廿一日



















維旹(時)嘉永七年寅霜月●●●●
発起主 河内屋治兵衛門謹建●


大正橋の東詰めにも嘉永七年十一月の大津波のことを記した碑があった。


「あせにけるかな」とは浅くなった、潮が引いたという意。


多くの命を飲み込んで引いていった海。今は穏やかな水面を前に呆然と立ち尽くす人々の姿を心に浮かべる。




















堂宇の北、道路との境に無縁佛とも見える石が並ぶ。












その中に、



















確かに「芭蕉翁之碑」と読める。



















昭和丙辰は五十一年、西暦1976年。それほど古いものではない。

詰めて置かれているので、他の面が見えない。句も記されていなさそうな気がする。
自立した碑ではないのか。そもそもどういう経緯で造られ、どういう由縁でここにあるのか。












「碑」を「牌」とさり気なく間違えて、麻雀にかけて何か洒落られそうな気もしたが、生憎小生にはその嗜みが無い。


ただ、牌を捨てるところは河(ホー)、積むところは地(チー)と呼ぶらしい。














2011年10月24日月曜日

見(識?)をもつということ。





ひらひら平野、融通念仏宗総本山大念佛寺。堂宇の東、裏に位置する霊園に入る。


府内でも最大規模の寺院だけあって墳墓の層も厚い。


有縁者への連絡を求める札がかかった墓石が多い一画の中の一つ。






吉谷氏第十二世平次即邦暠父正隆母植村氏女…
明和七年庚寅歳生焉十年文政丁亥歳閏六月十三…
卒享年五十有八謚曰了得葬于融通山内蓋夫縦心…
形骸之外耽玩詩酒雪月者善則善矣而於其保家守…
也何如哉苟不能保家守身則根本失已矣此翁有見…
此銘曰亀形蔵六事々反求謹奉祀善紹箕裘。

蓋しそれ心に従い形骸の外に(遊び?)、詩酒、雪月に耽玩する者は善ければ則ち善し。
而かるにその家を保ち(身を)守るにおいてや如何があらんかな。
いやしくもよく家を保ち身を守らざれば則ち根本を失うのみ。

耳の痛いことが刻まれている。

この翁は見(識?)有り…
此銘に曰く、亀形蔵六、事々反求、謹奉先祀、善紹箕裘。

“銘”は全文の総括となる詩をいう。
思い切って意訳してみよう。

亀さん、亀さん、いつも反省。ご先祖さまを厚く敬い、家業を立派に継ぎました。
“蔵六”は四肢と頭尾を隠せるという意で亀のこと。






吉谷了得氏の墓。




文政十一年(西暦1828年)歳次戊子夏六月


お墓もちゃんと遺っているくらいだから、きっと銘に謳われているように人生を締め括れたのだろうが、始めから真面目なだけの人だったら、わざわざ風流事に耽り、気ままにしていた、などと墓に記さないはずだ。


どんな優れた見(識)を有たれていたのか、尋ねたいものである。










堂宇の北、鐘楼の下にある句碑。




観ずれば 阿吽の鐘や 花の中




享和元年(西暦1801年)辛酉歳暮春日



2011年10月17日月曜日

無縁と有縁



いなのの酒所にある本泉寺、堂宇の東にある霊園に入る。



刻まれた文字の多いものはとりあえず読んでみる、


先生諱興賢字達夫号杏…
姫路三木氏之子嗣摂州…
吉田了遠初称俊介後三…
舒庵先生精医術通経史…
性嗜酒被酔揮筆飄逸潚…

舒庵先生は医術と経史に通じ
酒好きで酔っ払って筆を執ると伸びやかで粋だった…。

酒好きの文人を褒める紋切り型の句という気はするが、嬉しいじゃないか。


塵気弘化二年丙午四月十…
歿年七十四妻岡田氏生二女…
先歿養姪柔直為子又先歿…
三………


他の墓石や縁石に遮られて読めない。





無縁の墓石がピラミッド状に積み上げられているのを見るが、これは吉田氏の墓所と覚しい。





これは帰途、劇場の裏の地蔵達。


2011年10月11日火曜日

おまっせ



城の東、市のターミナル駅の一つ、東口を出て右の裏通りの裏に。以前は日常乗り降りしていたので何度も側を通り過ぎていたのが、初めてフェンスの扉を押し、中に踏み入る 。


両側の建造物は立飲み酒場、或いはピンクサロンの裏口。
肉か何か焼いている人の姿が垣間見える。










しなのはし 生洲 おば

字句はこれでよいとおもうのだが、意味が取れない。
死んでまでも、いけす料理が食べたいと言うのだろうか。
それとも東方朔が漢の武帝に語ったという十洲のひとつを言うのだろうか。








平日、日が落ちるとこ周囲はとても賑やかだ。