2013年6月14日金曜日

日照り続きで埃がたてど住吉は乙女等の踏む




今日は住吉さんで、御田植神事が執り行われる日である。



市営バス、南東端のターミナルから南西端のターミナルへの一筋の路線。最後尾のベンチシートに着く。座席が一通り埋まるほどの混みよう。爺々数名、二つ折りにスポーツ新聞をながめている。


住吉さんの南を過ぎて、あえて終着駅まで約40分。
ここは港湾モノレールの始発駅でもある。


ターミナルを出て、競艇場を眺めつつ歩道橋をわたると、神社の境内。
西の鳥居を潜り右手、慰霊碑の並び立つ。

















ノートへの走書きのような碑文。




















聞喜城死守

敵ハ増シ緑ハ茂リ月末ダ出デズ
弾薬ツキルモ援隊ヲ乞ハズ
ナレド敵弾城壁ヲユルガス
糧秣ニカヘン犬マダ多ケレバ
粉骨砕身以テ死守セム
決意ハカタシ聞喜城


ネットで調べえたことを記す。

1937年、蒋介石の秘蔵っ子と呼ばれた衛立煌将軍の指揮する大軍に分断包囲され、現山西省聞喜県に50余日に渡る籠城を余儀なくされた歩兵第79聯隊、大阪出身の一兵卒が、焚火の消し炭で城壁に詩を記す。感心した師団長が石工の技ある他の兵卒にそれを書丹とし刻ませる。更にそれを写真撮影し、本土に搬送、天皇陛下にご覧いただき、お褒めを得た。

(参考にさせて戴きました)
http://www.geocities.jp/bane2161/hohei79rentai.htm


それから一年ほどは周囲で戦闘が続けられていたということだが、刻石そのものを日本に持ち帰るということはなかったのではないか。


これは天皇陛下もご覧になった写真を元に刻まれたのだと推量する。


おほきみの 眼差したどりれる みずぐきの
痕うつす石 日に曝されて
















馬、犬、鳩も慰めん。

















近代戦争のモニュメント。

男子はやはりこういったものが好き。
















大阪護国神社。




















さざれ石。


隣接する住之江公園を抜け、住吉さんへ向かう。



























雑居ビルにも、海の色。















姫松橋通りを横断。
















かつては海を照らしていた高灯籠。















公園を真っ直ぐ抜ければ、住吉大社。





















公園の東寄り、管理事務所の隣に蕉翁の句碑。


升買うて 分別かはる 月見哉


五尺余寸、小柄な男の背くらいの慎ましい碑。


升(ます)を買って、分別が変わるとは如何に?
















傍らの掲示板によると元禄7年(1694年)9月9日、翁はおそらく暗峠を越え難波入り、13日ここで開かれた宝の市で枡を購入、これは翌夜開かれた句会で詠まれたものとある。

まだ翁の意は読めない。

青流撰『住吉物語』に巻かれた歌仙が留められている。
その発句である。前書きには“住吉の市に立てそのもとり 長谷川畦止亭におのおの月を 見侍るに”とある。


支考撰『笈日記』難波部・前後日記には。

今宵は十三夜の月をかけて、すみよしの市に詣でけるに、昼のほどより雨ふりて、吟行しづかならず。殊に暮々は悪寒になやみ申されしが、その日もわづらわしとて、かいくれ帰りける也。次の夜はいと心地よしとて、畦止亭に行きて、前夜の月の名残をつぐなふ。

発句、会席者への挨拶であり、また十三夜、月見ができ
なかったことの言い訳ということは分かった。


『住吉大社』(住吉大社編,学生社刊)10章 俳諧と住吉に富山秦氏(四天王寺女子大学教授)のこの句の解釈を挙げている。“芭蕉が升を買ったのは事実であるが、「分別かはる」とはじつは事実ではなく虚構である。……身体の不調や天候で月見をとりやめたのでは詩にならない。升を買った結果、急に所帯気がついて月見をやめたといえば、そこに笑いがある。……。”


俗を雅に昇華しての俳諧、病みてこその翁のはにかみ振りと、一旦納得しかかった。
しかし、独り者の爺が夜市で升を買って、いったいどんな所帯気を帯びるというのだ? 翁を知る者こそ?ではないか。

句に戻る。“分別かはる”を“気が変わったので、約束を反故にしちゃった”とのみ解して良いか?
また、升を市井の実用品、俗のものとして良いか?

『枡』(ものと人間の文化史36,小泉袈裟勝著,法政大学出版局刊)にこうあった。“歳時記によると、大阪住吉神社には、旧暦九月十三日に枡市が立ったという。昔は黄金の枡を作って新穀を供え、境内では農家で使う枡を売ったとある。”

稔りを神前に運ぶ器であったというのである。それもゴールドの。庶民の手にする市で売買されていたそれにもその輝きは照り返していたのではないか。

否、しかし枡は所詮、物の体積を計るものではないか。おっと、所詮と言ったが、計るとは即ち分別そのものではないか。

“米の流通過程では、枡はまさに主役であった。もともと計量器というものは、取引の客観公正な審判官としての道具であるべきなのに、枡目となるとどこか冷厳さを欠いた、さまざまな政治や社会あるいは生存のかげりがつきまとってくる。(『枡』小泉袈裟勝著より)


yena yena vikalpena yad yad vast vikalpyate
parikalpita evaasau svabhaavo na sa vidyate


翁の意、はかりかねて、一首


升を頭に のせ 御酒そそぎ 月うつし
分別の無き ひとと呼ばれん




















碑陰。



















これも灯りを供えることにほかなるまい。


升之市、中絶を経て、いまは毎秋開かれているという。
この秋はここに升を買いに来ることとしよう。


















神事に馳せ参じる乙女ら。


大鳥居の下で妹と落ち合い、駅舎裏の中華料理店で腹ごしらえ。
















千円払い、綿の花を頂戴し、御田を囲む人々に混じる。
















御田の東側テントの下。空梅雨も懸念の早過ぎる猛暑とはいえ、早稲をなでる西風が涼しい。






























南風(はへ)光る わせの早苗の細ければ 
五色の幟 ふれさはぐなり













白きゆび 添ふ苗が根の どろの中に
埋くるるたびに ときの満ちゆく















乙女らが ちいさき足の 踏むつちの
たてし塵はも 神は厭はじ



神事終了。本殿、末社参拝の後、駅前の喫茶店で一服。

文房具を買いに本町に行くという妹を駅に見送る。

まだ日が高い。社の南縁に沿い、東へ向かう。

















先の御田。2、3の職人さんがテントを片付けている。
早苗が風にそよぐ。
















紫陽花はぐったり。
















東南隅に立つ碑が数基。あらためて読みに立ち寄る。

いずれも新町廊と御田植神事とのかかわりを記したもののようだ。




















碑記 
歳乙未六月被挙行大社神田植神事之際
新町花街神田改修記念而中央舞台新設
並神田代舞等有、奉納頗盛儀也
仍茲列記人名事如斯矣
昭和三十年十月吉日  安江不空撰





















此式自上古(この式は上古より)

一部訓みがあやしいが、あえて自ら読み下したところを記そう。こう訓めよ、と気付かれた方はご教示ください。

書に曰く、先ず稼穡の艱難を知れ。稼穡、豈に忽(おろそか)にすべけんや。世のまさに乱るるは、田卒汗菜。その治や、民みな農に勤むれば、功にして、且つ百穀。足らざれば則ち考悌不生の教化、施すべからず。天、百物を生ず。穀重んずる莫きや。(?)
況や吾が瑞穂の国においてをや。
住吉神社、插秧の式ありて久しきなり。毎歳五月二十八日、堺市乳守の娼、植女の儀をなす。而して明治八年、其の田、民の有つところとなり、十年、其の式も亦廃る。
翌歳六月十四日、大阪市新町廊、撰ばれし妓十名、植女の儀を行う。二十年夏五月、故田を購い、献りて神の田と為す。是においてや其の式、いよいよ興るなり。遂に六月十四日をもって例となす。
嗟乎(あぁ!)此の式の殆んど将に廃れんとして復た興るはいずくんぞ神の意に非ずと識らんか。(?)凡そ植女を為すものは恭敬肅慎にして敢えて其の儀に違うことなし。人、徒に其の靚妝(よそおい)を観ずして、稼穡の艱難を観れば、則ち可なり。
  妻鹿雍 撰并書
  時 明治二十三年庚寅夏五月

http://yuuyuusya.web.fc2.com/sumiyoshi-web-expo/1-hukkatuhi-takuhon.html

もとは堺乳守の娼妓が担っていた御田植神事の植女の役、維新の混乱からか廃れ、中絶していたところ、新町廊の娼妓がその役を受け継ぎ、式を復興したというのである。

撰者は文末、おまえら芸子さんの装いばっかりでれでれ見てないで、農が国の本だっていう儀式の本義を忘れんなよ、と戒めていらっしゃる。

はい。


堺の乳守ってどこだろうと調べてみれば、南旅籠町。
沖縄から出てきた祖父が鍼灸院を開いていたところではないか。
確かに記憶がある、向かいの銭湯の名は乳守温泉。

乳守の街が聖なる務めを放棄したのが維新前後。先の終戦前後にここで生業をたてようとしていた故・祖父に関係のある話でもないが、また母か叔母に尋ねてみよう。