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2012年4月20日金曜日

惜春漫歩



ただ歩き続ける。
霊園に分け入っても、文字で親しく語り掛けてくる碑がこのところ無かった。


今日は淡路駅を降り沿線東へ。城東貨物線に当り左折、高架沿いに暫く往くと更に高い東海道新幹線の高架。又、左折。


早や汗ばむ陽気。高架の落す影の下を往く。


はなちらすかぜやすずしと そらのあお かげのいろこきなつはきにけり


崇禅寺に至る。




















かつてここに摂津県の県庁が置かれていたという。
本堂西の墓地。参拝か墓石を洗う人々数組。新しい御影石の文字に青ペンキを入れる石材加工業者の姿。
































足利義教の首塚、歴史好きならゆかしかろう碑がいくつかあった。


少し西に中島惣社。
手水の手前に句碑一基。




















宮人よわが名をちらせ落葉川 ばせを


















文化癸酉春二月 扇暑奉


蕉翁のものであった。


句意がピンとこなかったが、後で調べると近くを落葉川と呼ばれる川が流れていて、そこから採ったのではないかとある。


枯葉ならぬ花弁が散り尽きそうな今。
流れるものと流れないもの。




長柄橋を渡る。
風が強い。被っていた帽子のつばを手に。
夏の始まる前から、あの日の麦藁帽という思いは避けたいものだ。


亀岡街道を下る。天神橋筋商店街はもう少しではないかという辺り。道沿いに大きな霊園。




















80年代初頭に流行った演歌のメロディーに乗って、つまらない脳中駄洒落。


























こういう処で長い髪の女には会いたくないな。






















日暮れも近い。足早に巡るなか、目に飛び込んだ一句。




















辞世 一飛に雲井に 入や 揚雲雀 長善


明治廿九年三月 一日就眠 長善齢七十七歳
明治十二年六月廿一日就眠 きみ齢四十七歳




霊魂を鳥類に仮託するという発想は古来ある。雲井は死後行くべき国、天国なのであろうか。


死んでから行く所があってもなくてもどちらでも良いが、それが天上なのか地下なのか、西方なのか山のあなたなのか、見聞を重ねるほど分からない。


何れにしろこの句は”一”の書き振りも併せ小気味良い。天国までホップ!ステップ!ジャンプ?


碑陽に回る。




















大畠長善夫婦之墓




かなり大きな碑。“夫婦之墓”とあるのは初めて見る気がする。


碑陰にある二人の没年を検める。
句を遺した夫より十七年前に妻は逝っている。
大畠長善氏は十七年間亡き妻を偲び続けたのか。


うらうらに照れる春日。中空に囀る雲雀を独り眺める時を重ねた末の“一っ飛び”なのかもしれない。




















さて、天六に至り左折。


もう寺社の門は閉まる頃であるが、鶴満寺に向かう。


この寺院、明治十八年の洪水で流されるまでは桜の名所として名高かったそうだ。未聴であるが、花見客の狼藉が描かれる“鶴満寺”という落語の演目もあるらしい。


天満橋筋は広い。向かいの天神社からも山門が閉まっているのが見えるが、とりあえず横断歩道を渡る。


お迎えや夕餉の支度に母子らの歩く歩道。
閉門を前に少しく往来する。


と、山門のすぐ左、老人収容施設前の駐車場から、そのまま境内に入れるではないか。


本堂への参拝は憚り、奥の霊園へ。
やはり名のあるところにはあるものだ。鬼貫の墓があった。






















句も刻されていたが、これらについては又の参拝の機会に触れよう。




















噺家・芸人であった方々に違いない。









一隅を見守る地蔵菩薩。


鶴満寺を後に天満橋筋を南へ。八軒家浜で同居人と落ち合い、造幣局桜の通り抜けへ。




































幾万の府民と共に往く春を惜しみにけりな群櫻の下





2012年1月24日火曜日

ミナミハマ!




渡ったのは去年も暮れ三十日。
年の境を挟み、正月気分を引っぱりたいのである。


新淀川大橋、敢えて北より。
大鳥居越しに境内、初詣の支度か職員がホースで水を撒いている。


参拝も軽く、社殿の左傍らを進む。突き当たりに句碑一基。


















置く露や置いても置けぬ置き処 壺月




面白い句だと思う。借りの宿りもままならないと言うのか。


伊勢物語の一段にある歌を引きたくなった。


白玉かなんぞと人の問いしときつゆとこたえて消えなましものを


そう言えばここから江口もそう遠くはない。


俳人・壺月については未詳。




















句碑は遥拝所碑と並び茂みの奥に。


神社の現経営者としては、こういった物の置き所に困っているのかもしれない。
















歌道に縁のある神社ではあるのか。


















南に下る。新御堂筋の一筋東、源光寺の門前、東海道本線の高架をくぐり。南濱墓所。








































日本で最初の墓場だそうだ。火葬もここが起こりという。






































つつましい一基。




「何の木や」以下が剥落している。
総合電気メーカーのテレビCMのメロディーが頭の中で繰り返す。気になる、気になる。


ピカピカした御影石に無粋な機械彫の文字というのは一つも見当たらない。


















読むべきものが多い中、ゆかしく感じた一基を挙げる。






















(篆題)児神
  女名波二。姓龍田。難波産也。幼而才敏。異於衆児。 六  
歳好読書。能草書琴瑟成章。一日罹痘疫而医薬不   
遺言曰。詩曰。無非無儀。無父母詒罹。嗟父母無憂。我死 
皆涕泣言。天凶才児。可貿分身。以易之矣。其愛惜於人如
此。享保甲辰五月十九日生。辛亥七月十九日卒。年八歳。葬
于北濱之地。作一絶。以述哀情。云。


窈窕女児吟読声。餘音触耳愛情清。
一朝嬰病命頓絶。契闊死生足誦名。


龍田氏が疫病に急逝した娘を祀る墓誌銘。


こういった文章は先ず人の生前の有り様を讃えるものであるし、親馬鹿も入ろう。六歳で読書を好み、草書、琴瑟を良くした、という所まではふむふむと読んだ。
八歳(数え年だらか実際は七つ)の娘がこと切れる前、詩の文句を引いて、私が死んでも悲しまないで、と言ったというのだ。
後で調べると詩経・小雅・斯干からの引用である。




末尾の七言絶句を訳してみる。


かわいい娘が本を読んでいる。
その声が耳に届く度、愛しさが増す。
ある朝突然、病が娘の命を奪った。
生死の隔たりが私に娘の名を呼ばせるのだ。




漢詩で娘を失った悲しみを述べるというのは現代からはとても遠く感じられる行為であろう。
詩の巧拙など分からないが、これは真情が胸に来た。
























大阪三郷大火
五十回忌追善供養
焼死水死精霊


















新御堂筋に戻り、向こうは茶屋町。ビル間の道を抜けて阪急梅田駅下。かっぱ横丁、古書街をぶらぶら。


中尾松泉堂は値の付け方が辛いのでもっぱらウィンドウショッピング。
















春のはじめの酒ほかいのうた


初春のけふの豊御酒
ゑらゑらにかくしのみてな
よろづよまでに
          宣長




値は付いていない。真蹟なのであろう。




正月だ。美味い酒だ。
にこにこと、こんな風に
ずっと飲んでいたいね。


と、言うのである。











2011年10月24日月曜日

見(識?)をもつということ。





ひらひら平野、融通念仏宗総本山大念佛寺。堂宇の東、裏に位置する霊園に入る。


府内でも最大規模の寺院だけあって墳墓の層も厚い。


有縁者への連絡を求める札がかかった墓石が多い一画の中の一つ。






吉谷氏第十二世平次即邦暠父正隆母植村氏女…
明和七年庚寅歳生焉十年文政丁亥歳閏六月十三…
卒享年五十有八謚曰了得葬于融通山内蓋夫縦心…
形骸之外耽玩詩酒雪月者善則善矣而於其保家守…
也何如哉苟不能保家守身則根本失已矣此翁有見…
此銘曰亀形蔵六事々反求謹奉祀善紹箕裘。

蓋しそれ心に従い形骸の外に(遊び?)、詩酒、雪月に耽玩する者は善ければ則ち善し。
而かるにその家を保ち(身を)守るにおいてや如何があらんかな。
いやしくもよく家を保ち身を守らざれば則ち根本を失うのみ。

耳の痛いことが刻まれている。

この翁は見(識?)有り…
此銘に曰く、亀形蔵六、事々反求、謹奉先祀、善紹箕裘。

“銘”は全文の総括となる詩をいう。
思い切って意訳してみよう。

亀さん、亀さん、いつも反省。ご先祖さまを厚く敬い、家業を立派に継ぎました。
“蔵六”は四肢と頭尾を隠せるという意で亀のこと。






吉谷了得氏の墓。




文政十一年(西暦1828年)歳次戊子夏六月


お墓もちゃんと遺っているくらいだから、きっと銘に謳われているように人生を締め括れたのだろうが、始めから真面目なだけの人だったら、わざわざ風流事に耽り、気ままにしていた、などと墓に記さないはずだ。


どんな優れた見(識)を有たれていたのか、尋ねたいものである。










堂宇の北、鐘楼の下にある句碑。




観ずれば 阿吽の鐘や 花の中




享和元年(西暦1801年)辛酉歳暮春日



2011年9月7日水曜日

太融寺(1)

太融寺境内、芭蕉句碑。









しら菊の目に立てみる塵もなし 翁


梅室拝書


(碑陰)天保十四卯年 為百五十回忌追福


比良城林曹社中建之
碑は西門越しにラブホテル街を臨む。






境内の東寄り、白砂の上に数基、それぞれ関係のなさそうな碑が並ぶ。
その一基。







雲来詩墳。


碑陰、







余自幼所賦詩殆六千
今鈔千数百以頒同好
埋餘千此


明治丙申(29年, AD.1896)十月石橋教




つまり四千数百首の詩稿をこの石の下に埋めたということらしい。