2011年10月24日月曜日

見(識?)をもつということ。





ひらひら平野、融通念仏宗総本山大念佛寺。堂宇の東、裏に位置する霊園に入る。


府内でも最大規模の寺院だけあって墳墓の層も厚い。


有縁者への連絡を求める札がかかった墓石が多い一画の中の一つ。






吉谷氏第十二世平次即邦暠父正隆母植村氏女…
明和七年庚寅歳生焉十年文政丁亥歳閏六月十三…
卒享年五十有八謚曰了得葬于融通山内蓋夫縦心…
形骸之外耽玩詩酒雪月者善則善矣而於其保家守…
也何如哉苟不能保家守身則根本失已矣此翁有見…
此銘曰亀形蔵六事々反求謹奉祀善紹箕裘。

蓋しそれ心に従い形骸の外に(遊び?)、詩酒、雪月に耽玩する者は善ければ則ち善し。
而かるにその家を保ち(身を)守るにおいてや如何があらんかな。
いやしくもよく家を保ち身を守らざれば則ち根本を失うのみ。

耳の痛いことが刻まれている。

この翁は見(識?)有り…
此銘に曰く、亀形蔵六、事々反求、謹奉先祀、善紹箕裘。

“銘”は全文の総括となる詩をいう。
思い切って意訳してみよう。

亀さん、亀さん、いつも反省。ご先祖さまを厚く敬い、家業を立派に継ぎました。
“蔵六”は四肢と頭尾を隠せるという意で亀のこと。






吉谷了得氏の墓。




文政十一年(西暦1828年)歳次戊子夏六月


お墓もちゃんと遺っているくらいだから、きっと銘に謳われているように人生を締め括れたのだろうが、始めから真面目なだけの人だったら、わざわざ風流事に耽り、気ままにしていた、などと墓に記さないはずだ。


どんな優れた見(識)を有たれていたのか、尋ねたいものである。










堂宇の北、鐘楼の下にある句碑。




観ずれば 阿吽の鐘や 花の中




享和元年(西暦1801年)辛酉歳暮春日



2011年10月17日月曜日

無縁と有縁



いなのの酒所にある本泉寺、堂宇の東にある霊園に入る。



刻まれた文字の多いものはとりあえず読んでみる、


先生諱興賢字達夫号杏…
姫路三木氏之子嗣摂州…
吉田了遠初称俊介後三…
舒庵先生精医術通経史…
性嗜酒被酔揮筆飄逸潚…

舒庵先生は医術と経史に通じ
酒好きで酔っ払って筆を執ると伸びやかで粋だった…。

酒好きの文人を褒める紋切り型の句という気はするが、嬉しいじゃないか。


塵気弘化二年丙午四月十…
歿年七十四妻岡田氏生二女…
先歿養姪柔直為子又先歿…
三………


他の墓石や縁石に遮られて読めない。





無縁の墓石がピラミッド状に積み上げられているのを見るが、これは吉田氏の墓所と覚しい。





これは帰途、劇場の裏の地蔵達。


2011年10月11日火曜日

おまっせ



城の東、市のターミナル駅の一つ、東口を出て右の裏通りの裏に。以前は日常乗り降りしていたので何度も側を通り過ぎていたのが、初めてフェンスの扉を押し、中に踏み入る 。


両側の建造物は立飲み酒場、或いはピンクサロンの裏口。
肉か何か焼いている人の姿が垣間見える。










しなのはし 生洲 おば

字句はこれでよいとおもうのだが、意味が取れない。
死んでまでも、いけす料理が食べたいと言うのだろうか。
それとも東方朔が漢の武帝に語ったという十洲のひとつを言うのだろうか。








平日、日が落ちるとこ周囲はとても賑やかだ。

2011年10月6日木曜日

模擬原爆投下跡地碑

田辺の法楽寺に向かう途中。




昭和20年7月26日、パンプキンという名の爆弾をアメリカ軍がこの辺りに落とした。



角の店舗の名はさりげなく“atomic”。


髪を整える店であるようだ。