2011年9月25日日曜日

秋空

こういうところにいしぶみ(碑刻)をあげればそれも面白かろうと思い立ち上げたが、詩歌も銘も少しく考証を要する。新しい墳墓は子孫の存在に気を遣う。

霊園に分け入っているうちに無縁佛の画像が溜まっていたのでここにあげる。


















夏去って無縁佛と青空と



2011年9月16日金曜日

太融寺(2)

先に『雲来詩墳』を掲げた際、その下に四千数百首の詩稿がこの下に埋まっているであろうと記した。




源融公が経営していた頃の寺域は、東は御堂筋、西は天神橋筋まで及んでいたという。それが大阪の陣で豊臣方に加担したため大半を没収される。更に昭和大戦下、空襲により堂宇が灰燼に帰し、復興にあたり更に区画整備で縮小された後の現在、歓楽街に囲まれてある寺域である。

焼野原に転がっていた碑を復興後、ここに移動しこのように並べたと推測する。下を掘り起こしても、詩稿を掘り当てる望みは薄い。








並ぶ碑の内の最も小さなもの。



放生塚。

仏教の殺生戒に基づいた儀式に放生会(ほうじょうえ)というのがあるそうだ。

池に魚を放ち、己の中の生類への憐れみの心を確かめるセレモニー?

この塚はその池の標だと想像するのだが、塚の前に広がるのは飛石と白砂である。




2011年9月7日水曜日

太融寺(1)

太融寺境内、芭蕉句碑。









しら菊の目に立てみる塵もなし 翁


梅室拝書


(碑陰)天保十四卯年 為百五十回忌追福


比良城林曹社中建之
碑は西門越しにラブホテル街を臨む。






境内の東寄り、白砂の上に数基、それぞれ関係のなさそうな碑が並ぶ。
その一基。







雲来詩墳。


碑陰、







余自幼所賦詩殆六千
今鈔千数百以頒同好
埋餘千此


明治丙申(29年, AD.1896)十月石橋教




つまり四千数百首の詩稿をこの石の下に埋めたということらしい。