2012年2月21日火曜日

ネコヅカ!



桃の節句の翌日に茶会をするので掛物を用意してくれと依頼を受ける。


それらしいことを書し、その表具を業者に回すには日数が足りなくなったので、この際、掛物そのものを自分で作ってみようかと思案する。


この日は裂れを物色に北から南へ。


かつて良く通った日本橋五階百貨店。以前からの古着屋は開いていた。店主の声にいい加減に答えながら掛けてある着物を捲っていったが、これというもの無し。


更に南へ。飛田にも何軒か古着屋があったなぁ。


廣田神社へ寄り道。
先月暗くて読みかねた歌碑。やはり読みきれない。






















祈りつつ●●の民のさちあれと萬代かけてうえし松かな


“萬代かけて”とあるが、モッコク、笹は生えているが、松が見当たらない。




今宮戎神社。一月十日が夢であったかのように人気がない。


他に参拝客、グレーのコートの紳士が一人。


境内の南に句碑が二基。
















陋巷を好ませたまひ本戎 青畝


平成元年かつらぎ写生会建立。
“陋巷(ろうこう)”とは狭くむさくるしい町のことと辞書にある。
余計なお世話じゃ。






















蕣(アジサイ)の雨天にしぼむ是非もなし 来山


雪も降り始める寒空の下、夏の雨にしおれる紫陽花を想うのも粋だろう、などと言うのも、きっと本の句にある諧謔を裏切るまい。


碑陰に“昔俳人小西来山が閑居せしゆかりの今宮に所蔵の真蹟を写す。昭和五十四年五月三十日 小西●●建立”とある。


阪堺電車、恵美須町駅に付近にその閑居跡の碑があると史跡ガイド本にあったことを思い出した。




通天閣を臨みつつ堺筋恵美須交差点を右に。
南西角に無人の駅改札。狭い歩道、フェンス越しにプラットホームまで見渡せるが、碑は見当たらない。


白い角を生やしたフェルト帽、長身の白人男性とサングラスとニット帽の女性のアベックと擦れ違う。変な帽子だ、なんて思っていると、車道寄りのガードにもたれてあった自転車がふと倒れる。


あっ、と振り向くと、折りしも強まりかけていた風が籠に入っていたであろう紙片を舞い散らす。


視線の先では先の二人が飛び去る紙片を一枚一枚拾っている。


紙片は全て未記入のナンバーズ籤であった。小生の落し物と思われてもしょうがない位置関係である。彼等を止めなければならない。


“ゴミです。それはゴミですから…。”


日本語を解する彼女が“ゴミだって”とまだ拾おうとする彼を制してくれた。


小生は彼等から拾った何枚かを受け取ったであろうか。起こした自転車の籠にナンバーズ籤を戻す。


本の行先へと返る彼等。小生も南へと。


歩みつつ、無償の善意に返すべき言葉を返していない自分をちょっぴり責めた。


駅から数十メートル先に小さな踏切。やはり碑が気にかかるので渡り、一筋西の通りを北に戻る。
駅の裏にあたる駐車場にぽつんと小西来山十萬堂跡碑はあった。




山王に入る。三角公園寄りの古着屋は開いているが、今の目当てに適うものは遠目にも掛かっていなさそう。


飛田本通商店街を南に下り、左へ新開筋商店街。
当てにしていた古着屋のシャッターが閉まっていたので、今日の裂れ探しは打ち切り。そのまま帰途となる阿倍野へ。
色街の気配に停められたわけではないが、その門となる角の信用金庫。地域のガイドマップといったトタンの看板があったので眺めてみる。


以前から足を運ぼうと思っていた飛田墓地跡の表示がある。又、猫塚というのも気になる。


今歩いてきたアーケードの下を戻る。
飛田本通商店街に突き当たり、先ず猫塚。今見た地図の記憶をたよりに細い路地への進入を繰り返すが、辿り着けない。


いい加減足も疲れている。そもそもこの商店街の並びにお茶会の会場、カマン!メディアセンターがある。向かいのココルームでコーヒーを飲もう。


一服と茶談。スタッフに猫塚の在り処を問う。
“タマデを過ぎて一つ目の路地を入って、突き当りを右ですよ。”


やはり、少しのことにも先達はあらまほしきものである。


路地の突き当たり、平屋の軒程の高さの鳥居の先、お稲荷様が鎮座まします。














猫塚はその左に。




















猫塚
浪華 易堂書年七十五


三味線の胴の形である。糸の共鳴器とされたもの達への供養の意という。


背後はすぐ廃線跡地。フェンスで後ろへ退けない。




















残さばや ちりし桜の その匂ひ


明治三十四年七月建 室上小三郎


猫塚に気を取られていたが、その隣に更に大きな碑。






















平安堂近松巣林子信盛碑


 四天王大護国寺主職権大僧上源應書


近松門左衛門の碑であるという。


碑陰、






















それぞ辞世 去るほどに
扨(さて)もそののちに
残る桜が花しにおわば




近松の歌、さすが劇作家という措辞。
残る桜とは版木、つまり自己の書き残したもの。
あの桜の花のように賞でられつづける限り、それが俺の辞世の歌だと辞世に歌っているのである。




猫塚の句、まさか猫の詠んだものではあるまい。
室上小三郎氏の句として良いか。




散る花に残る匂いというのは芸能に身を捧げる者たちを貫く理念なのだろうか。




路地を戻り、霞町。飛田墓地跡へと向かう。


かつての大坂七墓の一つは移転され、一基の地蔵尊像のみがその跡であるよすがとは調べていた。


阪堺線の低い高架下を二、三度潜り、いくつもの簡易ホテルの玄関前を通り過ぎたが、記憶の地図のあるべき場所で、地蔵尊とは巡り会えなかった。