ただ歩き続ける。
霊園に分け入っても、文字で親しく語り掛けてくる碑がこのところ無かった。
今日は淡路駅を降り沿線東へ。城東貨物線に当り左折、高架沿いに暫く往くと更に高い東海道新幹線の高架。又、左折。
早や汗ばむ陽気。高架の落す影の下を往く。
はなちらすかぜやすずしと そらのあお かげのいろこきなつはきにけり
崇禅寺に至る。
かつてここに摂津県の県庁が置かれていたという。
本堂西の墓地。参拝か墓石を洗う人々数組。新しい御影石の文字に青ペンキを入れる石材加工業者の姿。
足利義教の首塚、歴史好きならゆかしかろう碑がいくつかあった。
少し西に中島惣社。
手水の手前に句碑一基。
宮人よわが名をちらせ落葉川 ばせを
文化癸酉春二月 扇暑奉
蕉翁のものであった。
句意がピンとこなかったが、後で調べると近くを落葉川と呼ばれる川が流れていて、そこから採ったのではないかとある。
枯葉ならぬ花弁が散り尽きそうな今。
流れるものと流れないもの。
長柄橋を渡る。
風が強い。被っていた帽子のつばを手に。
夏の始まる前から、あの日の麦藁帽という思いは避けたいものだ。
亀岡街道を下る。天神橋筋商店街はもう少しではないかという辺り。道沿いに大きな霊園。
80年代初頭に流行った演歌のメロディーに乗って、つまらない脳中駄洒落。


こういう処で長い髪の女には会いたくないな。
日暮れも近い。足早に巡るなか、目に飛び込んだ一句。
辞世 一飛に雲井に 入や 揚雲雀 長善
明治廿九年三月 一日就眠 長善齢七十七歳
明治十二年六月廿一日就眠 きみ齢四十七歳
霊魂を鳥類に仮託するという発想は古来ある。雲井は死後行くべき国、天国なのであろうか。
死んでから行く所があってもなくてもどちらでも良いが、それが天上なのか地下なのか、西方なのか山のあなたなのか、見聞を重ねるほど分からない。
何れにしろこの句は”一”の書き振りも併せ小気味良い。天国までホップ!ステップ!ジャンプ?
碑陽に回る。
大畠長善夫婦之墓
かなり大きな碑。“夫婦之墓”とあるのは初めて見る気がする。
碑陰にある二人の没年を検める。
句を遺した夫より十七年前に妻は逝っている。
大畠長善氏は十七年間亡き妻を偲び続けたのか。
うらうらに照れる春日。中空に囀る雲雀を独り眺める時を重ねた末の“一っ飛び”なのかもしれない。
さて、天六に至り左折。
もう寺社の門は閉まる頃であるが、鶴満寺に向かう。
この寺院、明治十八年の洪水で流されるまでは桜の名所として名高かったそうだ。未聴であるが、花見客の狼藉が描かれる“鶴満寺”という落語の演目もあるらしい。
天満橋筋は広い。向かいの天神社からも山門が閉まっているのが見えるが、とりあえず横断歩道を渡る。
お迎えや夕餉の支度に母子らの歩く歩道。
閉門を前に少しく往来する。
と、山門のすぐ左、老人収容施設前の駐車場から、そのまま境内に入れるではないか。
本堂への参拝は憚り、奥の霊園へ。
やはり名のあるところにはあるものだ。鬼貫の墓があった。
句も刻されていたが、これらについては又の参拝の機会に触れよう。
噺家・芸人であった方々に違いない。

一隅を見守る地蔵菩薩。
鶴満寺を後に天満橋筋を南へ。八軒家浜で同居人と落ち合い、造幣局桜の通り抜けへ。
幾万の府民と共に往く春を惜しみにけりな群櫻の下
0 件のコメント:
コメントを投稿