2012年5月25日金曜日

雨の鳥辺山は法の声





κειφαν乗る人οκειφανなのかい。


今日は宝物を見に天満橋を経て京都へ。
















熊野懐紙、後鳥羽上皇、藤原家隆、慈円の三幅を前にしばし佇む。


人波の中、上皇の詠い口の濃厚さに失笑。


近衛信尹の大字仮名の屏風はやはり佳いなあ。


近衛文麿が堂本印象のワラビの絵に賛を添えている。横書き一行。けっこう違和感。





五条坂へ。












大谷本廟を抜け、鳥辺山を登る。
















案内板に従い御荼毘所へ。




















































































親鸞聖人奉火葬之古蹟。




















更に墓ばかりの登り道の三叉路、




















左に肉弾三勇士之墓。











墓石の間を経巡る。




















一年ほど前、勤め先のパートの姉さん、友人が先祖の墓に和歌らしきものが刻まれているのだが、読めない。君の職場なら読める人もいるのではないかと、持ってきた拓本を読んであげたということがあった。曰く。


苔の下に朽ち果てん名を思うかな
まだ消えやらぬ露の身にして


人の命は昼を待たずに消えてしまう草の葉の上の露のようにはかないというが、苔むす墓石の下に朽ちてゆく肉体のように、その名というものも忘却に淵に沈んでゆくのかと思う(と、やるせないよ。)


解釈も紙に記し渡したところ、感激した友人からのお礼と言って、上等のワインを渡されるということがあった。


もし次の機会があったらスピリッツ系のでよろしく。


ともあれ、このことがこのブログを立ち上げた動機の一つでもあるのだが、その墓の在所が五条坂を登った辺りと聞いていた。元碑に巡り会えたらいいなと思ったのだが、この中の一つかぁ


































御恩をば知りたるまでも他力なり
せめておきてを守りたきもの


さすが真宗の懐、上の句はよい。下の句、他力まかせでルールを守ろうとしない同行衆に生前イライラさせられていたのか?






















有屋無哉の凪に無常の嵐かな 了幸


初句、読みは“うやむや”でよいと思う。


平穏の中に無常の嵐を見るだけなら普通の諦観である。うやむやに終わらせてはならない切迫したことをうやむやに終わらせてしまった。この凪にはそんな恨みが澱んでいるように感じられるが、どうか?本当はリアル嵐が吹いてほしかったのではないか。




















明治十八年酉秋分碑建之。


















この辺りからは京都タワーが良く見える。






















なき跡も名も正声といふからは
幾千代までも人の(つたへん?) 正声自詠






















前に掛けられたプラスチックの札に“当墓碑は、参拝者調査の対象となっています。お参りになった方は、この札をはずして当管理所までご持参ください。この墓碑は使用権取消調査の対象になっています。鳥辺山墓地管理所(松田花店)”とある。


うまく声が伝わらなかったようだ。






















嘉永五子年四月建之。






小降りだった雨も上がり、うぐいすの声が聴こえる。





















うぐいすの声を割って、間の抜けた子供達の嬌声。墓地を抜けると清水寺である。



















閉門まぢか。すこし逡巡してから、修学旅行生、外国人観光客に混じり清水坂を下る。








六道の辻を経て駅に向かう。




















一月ほど前、青年の運転する自動車によって凶事の起こされた通りを北上。


老舗古美術店の看板を眺めるつもりでいたのだが、ウィンドウ越しに名品。


















白隠禅師の一幅。















布袋 舟にのり月見に出かける所







2012年4月20日金曜日

惜春漫歩



ただ歩き続ける。
霊園に分け入っても、文字で親しく語り掛けてくる碑がこのところ無かった。


今日は淡路駅を降り沿線東へ。城東貨物線に当り左折、高架沿いに暫く往くと更に高い東海道新幹線の高架。又、左折。


早や汗ばむ陽気。高架の落す影の下を往く。


はなちらすかぜやすずしと そらのあお かげのいろこきなつはきにけり


崇禅寺に至る。




















かつてここに摂津県の県庁が置かれていたという。
本堂西の墓地。参拝か墓石を洗う人々数組。新しい御影石の文字に青ペンキを入れる石材加工業者の姿。
































足利義教の首塚、歴史好きならゆかしかろう碑がいくつかあった。


少し西に中島惣社。
手水の手前に句碑一基。




















宮人よわが名をちらせ落葉川 ばせを


















文化癸酉春二月 扇暑奉


蕉翁のものであった。


句意がピンとこなかったが、後で調べると近くを落葉川と呼ばれる川が流れていて、そこから採ったのではないかとある。


枯葉ならぬ花弁が散り尽きそうな今。
流れるものと流れないもの。




長柄橋を渡る。
風が強い。被っていた帽子のつばを手に。
夏の始まる前から、あの日の麦藁帽という思いは避けたいものだ。


亀岡街道を下る。天神橋筋商店街はもう少しではないかという辺り。道沿いに大きな霊園。




















80年代初頭に流行った演歌のメロディーに乗って、つまらない脳中駄洒落。


























こういう処で長い髪の女には会いたくないな。






















日暮れも近い。足早に巡るなか、目に飛び込んだ一句。




















辞世 一飛に雲井に 入や 揚雲雀 長善


明治廿九年三月 一日就眠 長善齢七十七歳
明治十二年六月廿一日就眠 きみ齢四十七歳




霊魂を鳥類に仮託するという発想は古来ある。雲井は死後行くべき国、天国なのであろうか。


死んでから行く所があってもなくてもどちらでも良いが、それが天上なのか地下なのか、西方なのか山のあなたなのか、見聞を重ねるほど分からない。


何れにしろこの句は”一”の書き振りも併せ小気味良い。天国までホップ!ステップ!ジャンプ?


碑陽に回る。




















大畠長善夫婦之墓




かなり大きな碑。“夫婦之墓”とあるのは初めて見る気がする。


碑陰にある二人の没年を検める。
句を遺した夫より十七年前に妻は逝っている。
大畠長善氏は十七年間亡き妻を偲び続けたのか。


うらうらに照れる春日。中空に囀る雲雀を独り眺める時を重ねた末の“一っ飛び”なのかもしれない。




















さて、天六に至り左折。


もう寺社の門は閉まる頃であるが、鶴満寺に向かう。


この寺院、明治十八年の洪水で流されるまでは桜の名所として名高かったそうだ。未聴であるが、花見客の狼藉が描かれる“鶴満寺”という落語の演目もあるらしい。


天満橋筋は広い。向かいの天神社からも山門が閉まっているのが見えるが、とりあえず横断歩道を渡る。


お迎えや夕餉の支度に母子らの歩く歩道。
閉門を前に少しく往来する。


と、山門のすぐ左、老人収容施設前の駐車場から、そのまま境内に入れるではないか。


本堂への参拝は憚り、奥の霊園へ。
やはり名のあるところにはあるものだ。鬼貫の墓があった。






















句も刻されていたが、これらについては又の参拝の機会に触れよう。




















噺家・芸人であった方々に違いない。









一隅を見守る地蔵菩薩。


鶴満寺を後に天満橋筋を南へ。八軒家浜で同居人と落ち合い、造幣局桜の通り抜けへ。




































幾万の府民と共に往く春を惜しみにけりな群櫻の下