先に『雲来詩墳』を掲げた際、その下に四千数百首の詩稿がこの下に埋まっているであろうと記した。
源融公が経営していた頃の寺域は、東は御堂筋、西は天神橋筋まで及んでいたという。それが大阪の陣で豊臣方に加担したため大半を没収される。更に昭和大戦下、空襲により堂宇が灰燼に帰し、復興にあたり更に区画整備で縮小された後の現在、歓楽街に囲まれてある寺域である。
焼野原に転がっていた碑を復興後、ここに移動しこのように並べたと推測する。下を掘り起こしても、詩稿を掘り当てる望みは薄い。
並ぶ碑の内の最も小さなもの。
放生塚。
仏教の殺生戒に基づいた儀式に放生会(ほうじょうえ)というのがあるそうだ。
池に魚を放ち、己の中の生類への憐れみの心を確かめるセレモニー?
この塚はその池の標だと想像するのだが、塚の前に広がるのは飛石と白砂である。
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